紀陽情報システム株式会社

コラム

今は昔 四半世紀をふりかえり

私も当社に就職して25年が過ぎました。ということは、年齢も50歳に近づいたことになります。私自身はまだまだ若いつもりですが、世間で言う中年の域に達し始めていると思うと複雑な気分です。そこで、若いメンバーにとっては初めて耳にすることかも知れませんが、コンピュータに関する私の思い出話をしたいと思います。

基板 コンピュータといえば、現在では家庭に1台以上と普及したパソコンですが、私の大学時代にはマイコンと呼ばれていました。(今の電化製品によく内蔵されているマイクロチップを使っていたためです。)当時日本のマイコン市場は、日本のメーカーが独自のOSを搭載した商品を販売しNECさん・富士通さん・日立さん・東芝さん・ソニーさん・シャープさんなど、ほとんどの大手家電メーカーが参戦し、激しいシェアー争いとCM合戦を繰り広げていました。タモリさんがやっていた、富士通さんのCMは今でも記憶に残っていますが、最終シェアーを握ったのはPC−9801を擁したNECさんでした。また、外国メーカーが入る余地は少なかったのですが、アップルコンピュータさんが善戦していたと記憶しています。(私の大学の恩師はアップルさんが好きで、研究室には教授が自らハンダごてを使って組み立てたというAPPLEが置かれていました。アップルさんとデックさんが大好きなU教授、ごぶさた致しておりますが、お元気でしょうか。)

当時のパソコンは、本体20万円・ディスプレイ20万円・プリンター20万円・FDD装置30万円と大変高価な割には、メモリーが32KB・漢字を表示するためには数万円のROMが必要という、今では考えられないようなロースペックの代物でした。ちなみに5インチのFD媒体は、1枚1000円以上もしていました。FDDを使うようになる前は、カセットテープにプログラムを記憶していました。ノイズの問題で読み込めなくなり、せっかくのプログラミングの苦労がパーになってしまうこともしばしばありました。アルバイトを頑張ってパソコンを購入したら、今度は動かすソフトを購入する必要があったり、自作しようにも情報が不足していたりと常に壁がある状態でした。インターネットに情報があふれ、フリーのソフトがたくさんある現在からは考えられない時代でした。

光磁気ディスク その頃の大阪日本橋は、パソコンショップとパソコンソフトレンタルショップが乱立し、若者で賑わい特技を生かして「○○の神様」と呼ばれる方たちもいっぱい出てきました。中にはソフトのコピー防止プロテクトを解読する危ない方もおられましたが、その神様達がパソコンの普及の担い手であったことは間違いありません。それまでの日本橋は、電気製品やトランジスターなどの部品を売る電気屋さんの商売の町でしたが、パソコンブームをきっかけに若者がたくさん集まるようになり、今はオタクやサブカルで賑わう町へと変わりました。こんな変化を嘆く方もおられますが、私にとってはどちらも大阪日本橋の姿であり、人が集まり活気にあふれる「電気の町、大阪日本橋」「オタクが集まる町」の両方が気に入っています。日本橋に子供達を連れて行くと、子供達はアニメやトレーディングカード系ショップで満足、私は電気店やジャンクショップ巡りで満足と親子で楽しめるからです。最近は子供も大きくなって一緒に出かける機会も減りましたが、私の大切な思い出です。

学生時代はソフトバンクさんにもお世話になりました。今、ソフトバンクさんと言えば携帯電話をイメージされると思いますが、設立当時のソフトバンクさんは、パソコンソフトの販売やパソコン技術雑誌(Oh!シリーズ)の発行を手がけられ、技術評論社の雑誌(The Basic)と並んでパソコン愛好者の心強い味方でした。それから絶対忘れてはいけないのは、当時学生であった西和彦氏が設立したアスキー社が発行していた、雑誌「ASCII」です。西和彦氏は、のちにマイクロソフト社の副社長も務めるほどの才能の持ち主で、パソコン業界を発展させた功労者の一人です。ビル・ゲイツ氏は言うまでもなく、故スティーブ・ジョブズ氏、OSのCP/Mを開発したゲイリー・キルドール氏をはじめ、多くの先人達の才能と努力の上に、今のIT業界が成り立っていると感じでいます。(先人達に感謝!)

思い出は尽きることはありませんが、学生の頃から四半世紀を通じてコンピュータ業界に関わってきた私にとって、そのめざましい技術革新と変化のスピードは、私の人生に大いなる刺激と夢を与えてくれました。50歳目前の今でも若いメンバーに負けず、まだまだこの世界を楽しんでいきたいと思っています。

2013/02/27 Posted by Y.S.